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2024.12.02

脚本家・黒田洋介氏にインタビュー(1/4)「脚本家になるまで」編

YouTubeではなかなか言えないアレコレを、杉田智和が興味を持った人に、興味の限り聞きつくす。AGRSが贈るオリジナルインタビュー企画「AGRSが聞く」。

第2回のゲストは、古くから杉田と交流のある脚本家・黒田洋介さん。作り上げてきた作品と、ものづくりの哲学について全4編にわたってお届けします。

はじめに

杉田

第2回のゲストは、古くから杉田と交流のある脚本家・黒田洋介さん。作り上げてきた作品と、ものづくりの哲学について全4編にわたってお届けします。

黒田

いえいえ。杉田くんにはすごくお世話になってますし、これが恩返しになれば、こっちとしても嬉しいですよ。さて、どこから話したものかな……。相変わらず声優以外の仕事もしているようですけど、最近はどうです?

杉田

今回の話は、まさにそれです。優れた感性を持つ方と話していると、その中で新しい楽しさを見いだせるのですが、最近ではそういった出会いが少なくなっていたんです。すると、少しずつ意識が内側に向いていって、気持ちが小さくなっていってしまう。

そんな時に、若い頃の自分がどうしていたのかと思い返すと、浮かんでくるのが黒田さんの顔だったんです。「よし、タイミングを見て話そう」となったものの、そう思ってみたら現場で出会う機会がなくなってしまっていて……。

黒田

最近は作品の打ち上げにも行かなくなったからもう、出不精の極みみたいな感じで(笑)。

杉田

これはもう個別に機会を設けなければ話すことができない、ということでお呼びしました。それでは、よろしくおねがいします!

黒田

はい、おねがいします。

業界に入るまでの時代
なし崩し的な脚本家への道

まずは、お二人が会う以前。黒田さんのクリエイターとしてのバックボーンの部分をうかがえればと思います。

黒田

クリエイターというか、オタクとしての気質は幼少期からずっとありました。兄が買ってた週刊少年ジャンプを幼稚園時代から借りて、小さい頃はそれをずっと漫画ばかり読んでました。

さらに深みに行ったのは、小学5年生くらいの頃です。『機動戦士ガンダム』の再放送と共に起こったガンプラブームに、僕も飲み込まれました。

杉田

『機動戦士ガンダム』の再放送というと、僕はまだ2~3歳くらいの頃だ。当時のオタクとしては王道の流れですが、そこからどうやって業界に踏み入っていったのでしょう。

黒田

家族ごと東京に越してきてCDショップを始めて、その商店街にあったプラモデル屋に入り浸るようになったんです。そこの常連に月刊ホビージャパン(模型誌)のプロモデラーさんがいて、「興味があるなら手伝わないか」と言われて。

杉田

意外なところに入口があった!

黒田

モデラーさんの住むアパートに行って、発泡スチロールを削ってジオラマのベース作りなんかをやってましたね。小学生だったんで、単純にめちゃ楽しくて。

杉田

楽しかっただろうなぁ。プロの模型作り技術を生で見られるわけですから、大人だって嬉しい。オタク気質の子供だったら、絶対忘れられないイベントでしょうね。

黒田

しかも、それだけじゃないんです。当時はビデオデッキのような記録機材は普及し始めたばっかりで、60分のビデオテープが1本3000円とかする時代でした。でも、プロモデラーさんは濃ゆいオタクだから……。

杉田

当然、持っていると。当時のなかなか見返せないアニメの映像がいくらでも見返せるとなれば。

黒田

行くじゃないですか! 観るじゃないですか! 楽しいじゃないですか!

杉田

誰だってそうする。僕だってそうする。

黒田

本当に四六時中入り浸って、頼まれて弁当買ってくる丁稚奉公みたいな真似もしてましたね。ある時、その人が徹夜で作った作例プラモデルを僕に渡して、倒れそうになりながら言うんです「頼む洋介! コレを秋田書店に持ってってくれ!」って(笑)。

杉田

(爆笑)

黒田

受付の人に「編集部の◯◯さんにお会いしたいんですけど」とか伝えるんですが、来たのが中学生なもんだからビックリするじゃないですか。しかも、当時は僕も140cmくらいで小さかったもんだから、これが可愛がられるんです。

お菓子とか試供品とか貰うばかりか、チャンピオン編集部で水島新司先生の生原稿を見せてもらって、あげく単行本をお土産にくれたりしまして、もうウハウハ。行って帰って来るだけで色んなものを貰えるわけですから。こりゃ小遣い貰うより良いかもしれんと。趣味と実益じゃないですけど、そんな感じで中学時代を過ごしてきました(笑)。

杉田

コミカライズ版の『スクライド』や『未来改戦Dクロゥス』が秋田書店だったのは、その頃の縁だったりするのでしょうか。

黒田

まさにそうです。正式な業界入りは、大学の途中で編集プロダクションに入った時だと思うんですが、当時から秋田書店に出入りしていました。当時はまだ高河ゆん先生が連載してて、生原稿も見れて嬉しかったです。

杉田

うーん羨ましい!

黒田

高校の頃はバンドなんかをやりつつ遊んでいて、ちょっとプラモやアニメから離れていました。もちろん、観るものは観てましたけども。

しばらく後、手持ち無沙汰になったところ、雑誌のライターになっていたプロモデラーさんから「人手が足りないから来ないか」と連絡を受けまして。「マジすか? 行きます!」と即答して行ったら、社長に「じゃあ明日来て」と。

杉田

とんでもないクレーンゲームが炸裂している。

黒田

どこに行くのかと思ったら、小学館の『うる星やつら』のムックを作ってるとこに連れて行かれて「人名事典の担当はコイツです!」って(笑)。

杉田

ギャー!

黒田

単行本を全巻渡されて「そこ(単行本)からコマを切り抜いてキャラクター説明を書け」と。まだワープロも無い時代なんで、全部手作業ですよね。原稿用紙に書いて、五十音順に並べて、それを一週間でやれと。ほとんど泊まり込みでやって……。

杉田

いきなり原稿書いて、しかも期間も短かったわけですよね。まだライターとしての仕事をしている感はありませんでしたが、色々と大丈夫だったんですか?

黒田

一応は書けて、大きな問題もなく入稿できました。当然、編集者さんやライターさんに教えを請いながらですけれど……。なんとなく「まぁ、できるか」みたいな。すごく安直な感じで、雑誌ライターの仕事を始めました。

その後は、ゲームの攻略本とか、バンダイさんが出してる「模型情報」とか、学研さんの「Vアニメ」の記事とかを作っていましたね。

杉田

ゲームの攻略本というと、どんなものに関わっていたんですか?

黒田

当時はファミコンが流行ってて、バンダイ出版課さんもそれに乗ったわけです。そこで「ゲームを攻略できる人」として名前が挙がったのが僕と、現スタジオ社長主の千葉智宏でした。なので、あそこの本はほぼウチが一手に担っていました。出版ペースもめちゃくちゃ早くて、それこそ2週間おきに1冊作るくらいのペースで(笑)。

杉田

今とは環境もだいぶ違いますよね。それで2週に1冊ってとんでもないのでは……?

黒田

初期はカメラで(画面を)撮影していましたし、でかいマップを作ろうとなったら大量に撮影してカッターで切って、繋ぎ合わせた巨大なツギハギを撮影所に持っていったりしてました。予算が増えるとビデオプリンタが導入できたんで、それを使ったんですけども。……いずれにせよ、すべてがアナログな時代でした。

杉田

攻略本っていえば、けっこう数字とかにブレがあるのが多かったですよね。あれって、もしかしてゲーム内で調べてたんですか?

黒田

実際にゲームを動かして計算してました。当時は向こう(開発会社)側にも正式な仕様書がないんで、こっちで調べるしかなかったんです。RPGに出る敵のHPを調べるときなんかは、ちくちく殴ったダメージを記録して足していくんですよ。

あんまりでっかく攻撃すると誤差が大きくなるから、100前後のダメージを何度も何度も何度も何度も与えてね。たとえば、「1万3875」くらいで死んだなら「ざっくり1万3800でいいか!」とかいって、こっちもいい加減にHP決めるしかなかった。

杉田

確実な数字は分かりようがないわけだ。でも、当時を思い返すと、その力技っぷりにしては正確な情報が載ってたと思うんですよね。

黒田

だから、3回くらい戦って誤差を減らすんです。それを全部の敵でやらなきゃいけない。武器持たずに素手で何度も殴って誤差減らすとかも、ずーっとやってました。古き良きなのかは分からないですけど、無茶苦茶な時代でしたね(笑)。

杉田

今だったら調査作業だけで動画のネタになりますよ。そういった苦労があったからこそ、秋田書店系の仕事があったんだと思うと感慨深いです。

黒田

そうだね。攻略本の仕事をくれてた元バンダイ出版課の安蒜利明さんは、後に電撃ホビーマガジンの編集長になりましたし、スタジオオルフェが継続的に仕事を請けられたのは安蒜さんのおかげです。そういう意味で、攻略本の仕事も大事だったなと思います。

杉田

今のところ、かなり編集者としてのルートが強いように見えますね。そこからどうやって脚本家の道に進み始めたんですか?

黒田

実は攻略本を作り始める前、ゲームの脚本を何本かやってたんです。一番最初にやったのは『シャドウブレイン』というファミコンのゲームで、鳴り物入りで始めたのに脚本家がいないっつって、回り回って僕がやることになったわけです。その流れから、いくつかファミコン関連の仕事をしましたが、転機になったのはPC用アドベンチャーゲームでした。

杉田

おお、ここでPCゲーの道も出てくる。

黒田

これもバンダイ、もとい当時はバンプレストさんですね。ファミコンとかでゲームを出すのと同じ事業形態で、パソコン向けのゲームも出してたんです。『シャドウブレイン』と同じ流れで編集プロダクションに連絡がかかってきて、『ああっ女神さまっ』のシナリオを書くことになりました。

最初はウチの社長が電話を受けて、「あれ読んでないんですよね」で話を終わらせようとしたのを僕がパシッと止めて「お電話代わりました、私は全巻持ってます」なんて言ってね(笑)。

杉田

無茶苦茶だ! シナリオライターが足りてないのは、どの会社も同じだったと。

黒田

当時はゲーム開発の分業化が進んでなくて、いろんな作業をプログラマーがまとめてやってたんです。その中で、ゲームに合わせてシナリオを書けるライターってのは、特に不足していた時期だったんだと思います。

そんな中、僕はアニメもゲームも大好きでしたし、分岐を前提にしたシナリオ設計は言われなくとも作れました。テーブルトークやゲームブックのような“ルールに沿って書く”というスタイルに対応ができたんです。最終的に藤島先生のチェックも無事に通り、よかったと帰ろうとしたら、あるアニメ方面の人間から肩を叩かれました。「アニメにライターが足りねえんだよ」と。

杉田

ここでかぁ~!

黒田

それで担当したのが『天地無用!』でした。既にメガヒットしてる作品の続きを、こんなアニメ書いたことないド新人にやらせるなんて頭おかしいと思ったんですけど……。でも、書かせてくれるってんなら喜んでやりますって。

杉田

ついビビってしまいそうなもんですが。そこで前進できるのが黒田さんらしいです。

黒田

まぁ、ダメだったら泣いて逃げればいいだけじゃないですか。ボツの山食らっても「だって初めてなんだから仕方ないじゃん」で帰ろうと思ってたら、なんとかOK貰って、そのまま第二期もやることになって……。そのまま、あとはズルズルです。

前の会社の先輩がプロデューサーになって仕事をもらったり、『ピンクパイナップル』の一般作を作ってたKSSで『ファイアーエムブレム』を作ったり、本当に色々やっていました。その頃はクソ忙しかったんで、隣に座ってた倉田(英之)って男に「お前も今日から脚本家だ!」っつって仕事を投げつけたこともありましたね(笑)。

杉田

倉田さんが脚本家になったの、そんな流れなんですか!?

黒田

本当にそうでしたよ。「君は今日から仮面ライダー2号だ!」みたいな勢いでね。そしたら、ほんっとに俺より才能あって。最初は仕事を分配してたんですけど、いつしか人気が出て向こうには別の仕事が入っていくもんだから、結局のとこ自分の忙しさは変わらねぇという(笑)。

杉田

なぁるほどぉ~!

黒田

杉田くんと出会うくらいの頃はこんな具合で、なし崩し的に生きてました。なし崩し的に仕事が来て、こなしていく間に『おねがい☆ティーチャー』とか『スクライド』とかに関わっていくことになった感じです。

杉田

ヌルっと業界に入ったとは聞いてましたけど、本当に珍しいルートを通っていたんですね。そうなると、どの段階で脚本家としての自信を得たのかが気になります。

黒田

『トライガン』以降ですね。それまでは、身内というか”知り合いの知り合い”くらいの範囲から仕事を請けてたんですが、そこから先は知らない会社からもオファーが来るようになりました。それで、ようやく「脚本家として食っていけるかも」と思えるようになったんです。

僕は賞なんか一切貰ってないし、専門学校を出たわけでもないし、誰かに師事したわけでもない。つまり、実力に裏付けがなくて、なんとなくやって、なんとなくOK貰うのを繰り返してきたんです。そこに確信をもたらしてくれたのが『トライガン』でした。

杉田

評価は重荷になることもありますけど、自信にも繋がると。この場合はヒットがポジティブに作用したわけですね。

黒田

で、調子乗って『無限のリヴァイアス』『スクライド』『おねがい☆ティーチャー』とオリジナル作品を続けていく間に、杉田くんと出会ったという感じです。この頃はもうイケイケドンドンの時代で、もう内心で「天下取ったぜ!」みたいなノリでした。杉田くんと会ったときも、鼻がクソ高かったんじゃないかな(笑)。

杉田

そんな感じはまったくしなかったですよ!

黒田

まぁ、後でその鼻はバッキバキに折られちゃうわけですけど。



「杉田との出会い」編に続く