『月英学園 -神-』
原作:杉田智和 御立弾
著:熊川秋人 執筆協力:駒尾真子

第一章

月光の軌跡

 明けない夜はない……という言葉があるが、世界はいつまでたっても暗闇のままだ。

 心の闇が世界を閉ざし、永遠の夜が続いていることに気がついてようやく、眼前に光の道が出来る。

 ――私はその道を往く、訪れる新しい闇に向かって。

 世界はまるで、嘘という名の帳に覆われた暗闇だ。

 誰もが先の見えない道を手探りで進み、藻掻き、時に溺れ、懸命に手を伸ばす。

 『外の世界』も、『中の世界』も、『人』も、『人以外』も、この嘘だらけの世界に例外はない。

 彼もまた、そのひとりだ。

 かつて遠山浩と呼ばれた意識体は、今なお光の見えない道を歩み続けていた。

 どこへ行くべきなのかはわからない。どこを歩いているのかもわからない。それでも進み続ける以外の選択肢はない。

 幾千のプログラムにバグと認識されようと、幾万の変異ウイルスが立ち塞がろうと、腕を捥がれようと、身体を裂かれようと、たとえその肉体が死を迎えようと――。

 桃生町での戦いを終えた浩はこの広大な電子の海で、永い、永い旅路を歩んできた。

 それが数日だったのか、数ヶ月だったのか、はたまた数年か、数百年か。今となってはもうわからない。時間の感覚はとうに失ってしまっている。

 気が付けば世界は色を失い、もはや記憶は朧気となった。

 五体は感覚を失くし、目的を忘れ、自分が何のために存在しているのかもわからずに、それでも浩は一歩を踏み出し続ける。

 頭の中に響く誰かの名前を、かろうじて思い出しながら。

 ――御月英理。

 その名を思い浮かべた瞬間、永らく暗闇だった浩の世界が、微かに彩づいた。

「あれは……光?」

 出し方などとうに忘れていた声が自然と漏れていた。

 向かう前方から微かに、ほんの微かに光が差し伸べられている。

 変化はそれだけではない。身体がほのかに暖かい。掠れたノイズのような音が一定のリズムで耳元に届いている。

 失っていた五感が、戻ってきたのだ。懐かしい感覚に心が呼び覚まされる。

 一度伏せた瞼をゆっくり持ち上げると……そこは眩しいほどの日差しに包まれた、常夏リゾートを思わせる海辺だった。

「……え?」

 思わず戸惑いの声をもらして浩は体を起こす。いつの間にか自分は白い砂浜に横たわっていたようだ。寄せては返す波の音が嘘のように鮮やかに繰り返す。

「なんだ、ここ……?」

 見覚えのない場所だった。抜けるような青い空、遠くに浮かぶ白い雲、心地よい暖かさで降り注ぐ陽光。一体なにがどうなったらこんな場所にたどり着くのか、見当もつかない。いっそ幻覚だと言われたほうがまだ信じられるのに、頬についた砂を払った感触はあまりにも鮮明だ。

「アオイちゃ~ん! いくよ~!」

 呆然とする浩の耳に、不意に子供の声が聞こえてきた。顔を向けると、10人ほどの幼い子供たちが海の中で遊んでいる。

「オッケー、バッチ来~い!」

 アオイと呼ばれた黒髪で水着姿の青年が、快活な声を返して手を上げる。彼だけが、子供たちの輪の中で唯一大人のようだ。

 するとやはり水着を着た10歳にも満たないだろう小さな少女がサーフボードに身を預け、両手で水を掻き始めた。

 波が盛り上がるようにして、少女の乗ったボードを押し上げる。そのまま勢いに乗って滑り出したボードの上で、少女が立とうとして――。

「わっ、うわわわぁああ~~~っ!」

 ――あっという間にバランスを崩し、大きな水飛沫を上げながら海に落下した。

「た、たすけてぇ……!」

 すぐに顔を水面に突き出したものの、少女はばしゃばしゃと派手な音をたててもがく。明らかに溺れている様子に浩は慌てて身を起こしたが、彼が飛び出すよりも先に、彼女と同い年くらいの少年が泳いで駆け付け少女を救出する。

「なにやってるんだよ、ったく。ほら、水飲んでないか?」

「う、うん……ありがとう」

 少年の顔を見た途端、少女は我に返ったように落ち着きを取り戻した。

 そのまま二人は手を繋いで海から上がってくる。そこに、子供たちの中でも年長者らしい少年が近付いていった。

「エイリ、大丈夫?」

「大丈夫だよ、コウがいてくれたから。タイガもありがとう」

 『エイリ』、『コウ』、『タイガ』、その名を聞いて浩は困惑した。自分と同じ名前をした少年、御月英理によく似た少女、そして英理の兄のような頼もしい少年。

 あの子供たちは、まさか……確信に近い推測が、脳裏を過る。

 その時、少女を追いかけるようにして海から上がってきたあの黒髪の青年が、砂浜に膝立ちのまま呆然としていた浩を見つけて足を止める。かと思えば、すぐに手を大きく振った。視線は浩を通り過ぎ、その後方に向けられている。

「隊長~! 遠山さんが目を覚ましましたよ~!」

 隊長。誰の事か見当もつかず、浩は戸惑いながら自分の後ろを振り返る。

 ゆっくりと景色が巡る。その最中に、声が聞こえた。

「お久しぶりね、遠山くん」

 それは耳をくすぐるような。優しく、時に冷徹で、可愛らしさと透明感を合わせ持った……懐かしい声。

 完全に振り返った時、声の主の姿がそこにあった。かつての学び舎、月英学園で出会った彼女とは違う、ベレー帽をかぶり隙のない鋭い眼差しを持った女性だ。

 浩の口が無意識に、彼女の名前を呟いた。

「兼城……いずみ」

 無邪気な笑い声と、砂を踏みしめる足音を撒き散らして、子供たちが集まってくる。

「小さいおじさん、もう終わり~?」

「チー君、つまんな~い!」

 口々に不満を言いながら、子供たちは頬を膨らませて黒髪の青年を見上げた。

 そんな子供たちに、小さいおじさんだのチー君だのと思い思いに呼ばれる青年は、頭を撫でたり肩を叩いたりしながら笑いかける。

「ごめんね~みんな。今から大事な話をするから、また後で遊ぼう~! サーフィンもあとでまた教えてあげるからね。あ、でも僕が戻るまで沖には行っちゃ駄目だよ!」

 素直に返事をする子、つまらないと不平を漏らす子、規律正しく他の子を誘導する子。反応は様々だが、皆言われた通りに引き下がり砂浜の日陰を目指す。

 そんな子供たちに背を向けて、黒髪の青年は改めて浩たちに向き直った。

「お待たせしました、隊長!」 

「チアキ君」

 びしりと背筋を伸ばす青年へ、いずみは呆れに憤りを少し混ぜた表情を向けて両手を腰にあてる。

「あの子たちにサーフィンなんてまだ早いわよ。怪我でもしたらどうするの?」

「すみません、波に乗るはずが、悪ノリがすぎましたね」

 笑顔を崩さず堂々と寒いダジャレを言ってのけるアオイ? チアキ? を見て、浩はかつてのクラスメイトである佐藤を思い出した。

「あら、意外。まだ笑っていられるなんて思わなかったわ。ずいぶん大変な思いをしてきたはずなのに」

 いずみに言われて、浩はようやく自分が笑みを浮かべていることに気付いた。咄嗟に、自分の口元に手が伸びる。

 気の遠くなるほどの時間をただの暗闇で過ごしてきた。そんな自分に笑顔なんてものがまだ残っているなんて、浩自身にとっても意外なことだった。

 力の抜けた口角を一度手で覆うように拭ってから、浩は改めていずみの姿を見た。

 記憶にある学園生活で見た彼女よりずっと大人っぽいが、例え馴染みの少ない姿でも懐かしいと、そう思えた。

「お前の方こそ、元気そうで安心したよ。とっくに現実世界ってやつに帰ったのかと思ってたのに」

 出会いは月英学園でだが、いずみは、他のクラスメイトたちのようにデータで構成された架空世界の人物とは違う。桃生町という作られた世界ではなく、その世界を作った外の世界の人間だ。

「何でまだここにいるんだ? もしかして、ここもどこかの実験都市ってやつか?」

 僅かに眉を寄せる浩に、いずみは軽く首を横に振った。

「いいえ、ここは私が持っているただのプライベート空間よ」

 いずみはさらりと言ってのけたが、それがどれだけ特異なものであるか浩は理解していた。少なくとも、誰も彼もが所持できるものではないはずだ、と。

「システム諜報部……だっけ。この世界を管理してる奴らだけの特権ってことか」

 霞始めていた遠い記憶を引き戻しながら、浩は言う。言葉に小さなトゲが混じったのは仕方のないことだと思う。

「じゃあ、あの子供たちもお前が……?」

「ええ。第187実験都市である桃生町が閉じる際、私が引き取ったの。阿式ルルさんがあなたのデータを引きあげたのと同じようにね」

 いずみの話を聞きながら、浩は後方へ視線を向け、大きなパラソルの影の中で砂遊びをしている13人の子供たちを見つめた。――タイガ、キョウ、ユウキ、メイ、サツキ、アカネ、ツヨシ、リツ、タカ、ケイ、マリア、エイリ、そしてコウを。

「一応言っておくけど――」

「わかってる」

 やや硬さを含むいずみの言葉を、浩は淡白な声で遮った。遊ぶ子供たちは誰もが笑顔だ。それがあまりに眩しくて、浩はわずかに目を細める。

「……俺が探してる御月とは違うんだろ? それに、他のみんなも」

 兼城いずみが引きあげたのは、第187実験都市・桃生町を構成していた『匣』としての子供たちのデータだ。そこで丁寧に砂の城を築こうとしている少女エイリは、匣の中で様々な要素と数々の実験を経て磨き上げられたワクチン・御月英理とは異なる存在といえる。

「でも……みんないなくなっちまったんだと思っていたからな。あいつらがまた家族としての時間を過ごせるようになってるなら、よかったよ」

 他人と言うには近すぎて、知り合いと言うには遠すぎる。おかしな関係性の先にいるあの子供たちの楽しそうな姿は、何か心に沁み込むような感覚を抱かせる。

「やっぱお前はいいヤツだよ。ありがとうな、兼城」

 気付いたら口から漏れ出していた言葉だった。

 浩が再び視線をいずみに戻すと、彼女は一瞬戸惑ったように視線を揺らし、己を抱くように腕を回して俯く。

「……別にあなたのためにやったことじゃないわ。ただ、この世界を創った側の人間として、私だって思うところはあるのよ。こんなことで贖罪になるとも思っていないけど」

「そんなことないですよ!」

 割って入ってきたのは、チアキだった。拳をぐっときつく握り、目をしっかりと見開いて一歩大きく踏み出す。

「隊長はあの子たちの母親を、20年も続けてきたじゃないですか! 普通そこまでできませんよ! このアオイ=チアキだけは隊長の優しさを理解してますから!」

「……ありがとう。でもだからって」

 言いかけたいずみの言葉を、浩は今度は手を突き出して止めた。

「待ってくれ。20年だって? おい待てよ、俺が桃生町を出てからもうそんなに経ったのか?」

 一拍、いずみとチアキが顔を見合わせるだけの沈黙が流れた。

 いずみが言い聞かせるように頷く。

「この世界の体感時間ではね。外の世界だとせいぜい2ヶ月ってところだけど」

「どうりで頭がぼーっとしてたわけだ……」

 まさか20年とは。浩は額に手を当てる。

「何をのん気なこと言ってるんですか、遠山さん。あなた、あちこちでバラバラになってて、探すの大ッ変だったんですから! むしろあんな状態だったのに、よく今そんな普通に自我を保ててますね」

 少々大袈裟な口調で言いながら、チアキは微塵も大袈裟だと思っていない真剣な表情で、浩の頭からつま先まで何度も視線を巡らせる。

「バラバラ……そうだったのか。阿式とはぐれた後はずっとハザードと戦ってばっかりだったんだが」

 まさか自分がそんなことになっていようとは、思いもよらなかった。

 言葉にならなかった言葉の先を見抜いて、いずみが苦笑する。

「自分がどんな状態だったのかもわかってなかったなんて。遠山くんらしいけど」

「どういう人なんですか遠山さん」

「そういう人よ」

 怪訝そうな顔をするチアキに雑な返答を投げてから、いずみはチアキを紹介するように手で彼を示す。

「彼は千明葵ちぎら あおい君。データ分析が得意でね、あなたがそういう状態だと判明してから、協力してもらっていたの」

「どうも、匣治安維持部隊で隊長の補佐やってます、千明葵ちぎら あおいです。皆はどっちも名前みたいなアオイ=チアキとか、チアキとかって呼びますけど……まあ、好きに呼んでください。僕のほうで遠山さんのデータをひとつずつサルベージして、再構成させてもらいました」

 チアキは友好的な笑顔を作って、敬礼のポーズをとる。

 データをサルベージ。そう言われると、自分がプログラムであることを再認識させられる。しかしあえてそのことは口にせず、浩はいずみに、目が覚めてからずっと気になっていた疑問を問いかけた。

「それで? せっかくこんな楽園みたいな場所で平和に暮らしてたのに、なんで今さら、そこまでして俺を呼んだんだ?」

 そう、浩は偶然ここにたどり着いたわけではない。そんな偶然はあり得ない。データの断片としてバラバラになっていたというのなら、なおさらだ。

 つまりこれは、呼び出されたのだ。丁寧に浩のデータを集め、再構成し、復元させてまで。彼らには浩を呼び出す理由があった。

「それは――」

 真っ直ぐ見つめる浩の視線に、いずみはたじろいだように言葉を切った。

 それだけで浩には伝わるものがあった。いずみが言葉を濁すほどの大きい理由なのだ。

 意を決し損ねたいずみに代わり、チアキが口を挟む。

「世界が滅びると確定したなら、悔いのないように生きるべきかな」

 だから、呼んだ。

 だがその言葉に、浩は数秒二の句が継げなかった。なんとか絞り出した言葉は、ただおうむ返しに聞くだけだった。

「世界が……滅びる?」

 浩の乾いた問いに、チアキといずみは同時に頷いた。