『月英学園 -神-』
原作:杉田智和 御立弾
著:熊川秋人 執筆協力:駒尾真子

第五章

月英学園

 赤い空に、月が浮かんでいた。

 隅の方が薄汚れたコンクリートの床に、ぐるりと辺りを囲う頼りない柵。地上とは違うやや冷えた風を受けるそこは、月英学園の屋上だった。

 ルルがつなぎ、浩が拓いた道は、真っ直ぐに浩をここへと導いた。

 目を向ければ学園の外には、見覚えのある桃生町の街並みもうかがえる。いつかの日々を錯覚させる光景だった。

 ただしここは、あの時と同じ学園ではない。

 メインフレームの最奥であり、匣の根幹とも言える箇所。そこがなぜ月英学園なのかは浩には説明できないが、そこに佇む一人の少女にはここほど相応しい場などないようにも思えた。

 御月英理。

 数えきれないほど遡った出会いの日がそうだったように、英理はあの時と同じ姿で浩の目の前に立っていた。

 ただ違うのは、ぼんやりと空を眺めているのではなく、真っ直ぐ浩を見つめていること。

「聞いたぜ。匣を停止させる片棒を担いだんだって?」

 浩が問うと、屋上を風が吹き抜けた。浩から英理へと巻き上げるように通り過ぎる風が、英理の長い髪を大きく乱す。

「だからどうしたの? そんなことを聞くためにここまで来たの? 相変わらず暇な人ね、遠山先輩って」

 乱れて顔にかかった髪を一束耳に引っかけて、英理が冷ややかに答える。その眼差しも昔と変わらない。口元に微かに浮かぶ微笑みも。

 だが、浩にはそれがかえって違和感に思えた。

「確かめたくなってな。だって変だろ。お前が匣を止める理由がわからない」

「……人間への復讐とか」

「あり得ないね」

 事も無げに返ってきた英理の言葉を、浩は淡白に切り捨てた。

「あの桃生町での戦いを潜り抜けて、最後の戦いも一緒に乗り越えた。そのお前が人間への復讐だの、世界を壊すだの……違和感しかないんだわ」

 英理は決して慈悲深く博愛主義な人物ではない。けれど自分が生まれたこの世界を心から愛していた。たとえそれが犠牲の上に存在し、多くの欲望に晒されたものだとしても、それを知ってなお彼女は自分の運命を受け入れて立ち向かった。

 あのときの英理の決断は、他ならぬ彼女自身の意思によるものだった。だからこそ、今それと違うことをしようというのなら、相応の理由と事情がなければおかしい。

 浩は射貫くように鋭く、真っ直ぐに英理を見る。その視線を受けて、英理は一度目を伏せると風を辿るように視線を屋上の外へと向けた。

「このメインフレームにやってきた時、声を聞いたのよ」

「声? 誰の?」

「『大いなる意思』と呼ばれる存在……この世界そのものの声よ」

 英理が空を見上げる。赤い空は一日のどの時間でもない不穏な色をしていた。

「そいつが、人類に復讐しろって言ったのか?」

 浩は英理から目を逸らさずにいた。その視線を、ゆっくりと英理が振り向く。

「いいえ、違うわ。すべてを私に委ねると言ったの。だから私は、全部終わらせることにした。私自身が匣になることでね」

「匣になる? それってどういう――」

 目の前にいたはずの英理が瞬きの間に消えた。かと思うと、死角から鋭い刃が振り下ろされて浩の言葉を止める。

 空気の裂ける音がした。完全に反射で身を退いた浩の髪が、数本視界の端で切れて散る。

 浩は息を吞み、そのまま数歩後ろへ下がった。

 再び英理の姿を目に留めると、彼女の手にはいつの間にか、かつてハザードとの戦いで使っていた真っ赤な籠手が装着されていた。

 英理が鋭い表情で浩を見据える。

「お喋りはおしまい。いつまでもこうしていられないの。あなたがあの三人を消してくれたおかげで、私は匣の全権限を掌握した。匣は停止し、全ての機能を永遠に失う。匣の世界も人類も、全部……滅びればいい」

「それ、本気で言ってるのか?」

「ええ。本気よ。止めるなら容赦はしない」

 英理の眼差しには強い意志があった。たとえば同情や、妥協や、憐憫などでわずかに緩むことすらないような、張り詰めたような意志だ。

 英理の決意を捻じ曲げることがどれほど難しいかは、浩はよく身に染みている。

「はぁ、結局こうなるのか……」

「ええ、結局こうなるのよ。それに私、遠山先輩のこと前からずっと嫌いだったの」

 音を立てて足裏を擦り、足を引いて英理が身構える。

 浩は思わず表情を歪めた。

「うわぁ……それ効くなぁ。でも、奇遇だな。実を言うと俺もお前のこと、そんな好きじゃなかったんだよ!」

 言うと同時に浩は駆けた。光のごとき速度で英理へ迫る。常人にはおよそ反応できない速度だ。

 だが英理はほぼ同時に、地面に向けて籠手を撃ち込む。浩の駆ける速度と同じだけの速さで。

 鈍い音と共に地面が爆ぜた。

 そのたった一撃で、一瞬にして月英学園の校舎は崩壊した。強すぎる衝撃は建物を通過して大地にまで及び、そこからさらに震動が広がっていく。

 空気を揺るがし木々をへし折り、周囲に建ち並んでいた家々の屋根を吹き飛ばした。窓ガラスは徹底的に砕け、瓦礫の欠片と共に空の彼方へ飛んで散る。

 辺りは土煙に包まれ、数秒間あらゆる者の視界を遮った。

 屋上から放り出された形となった浩は、土色のカーテンの中に着地する。

 顔を上げれば、徐々に晴れて行く煙の向こうにうっすらと英理らしき人影がうかがえた。

 この一瞬で浩は理解した。今の英理の実力は、自分の知る彼女のそれよりも桁外れに強い。

 さらに、彼女の持つ危険察知能力が厄介なことこの上ない。先制攻撃を仕掛けようとしても、英理に先手を取られてこちらの思うように動き回れない。

(さて、どうしたもんか……)

 ゆるい風に揺すられて、土煙が徐々に消えて行く。そこに浮かび上がる人影は動かない。そのことに浩が違和感を覚えたのは、わずか一秒の間のことだった。その間に『危険は浩の背後に忍び寄って』いた。

 背中に感じた危険の感覚を頼りに、浩は身を捻りながら瞬時に跳躍する。

「委員長の蜃気楼かよっ!?」

 叫ぶのと同時に、今しがたまで浩が立っていたその場所が空間ごと斬り裂かれた。

 浩は目を瞠る。

「マジかよ、この威力……!」

 受け止めようとするだけでも、ただではすまなさそうだ。

 跳び上がった浩は宙から英理の位置を確認する。だが彼女の姿はすでに地上にはない。そう認識した直後――。

「がっ……!?」

 真上から振り下ろされた更なる衝撃、そして地面に叩きつけられた衝撃が浩を襲った。

 全身がバラバラになったかと思えるほどのダメージだ。それでも浩は即座に体を起こした。涼しい表情で己を見下ろす少女を睨み見据える。

 少女は今度は動き、軽く鼻を鳴らした。

「前から言おうと思ってたけど……それ勝手に使わないでよ、危険察知。私のなんだから」

「お、お前だって今、委員長の蜃気楼使っただろ!」

「私のは違うわよ。そういう力ってだけ」

「そういう力って、どういう――がはっ!?」

 言い終える前に、激しい衝撃が再び浩を襲った。人間の腕から繰り出されるとは到底思えない凄まじい力に吹き飛ばされた浩は、学園の敷地から飛び出して近隣住宅の壁をぶち破り、そこでようやく止まる。

 重すぎる衝撃に、指の先まで痺れてすぐには動けなかった。だが自分を追って気配が近付いてきている。のうのうとしていればただの的だ。浩がどうにか体を引きずり起こして、無理矢理に体勢を整える。

 そうして顔を上げた先には、ふたりの御月英理の姿があった。

「蜃気楼じゃない……本物がふたり……!?」

 どういうことかと浩は目を瞠る。だが今しがた受けた衝撃は確かに英理ひとりのものではなく、まるで『英理ふたり』から同時に攻撃を受けたかのようだった。

 ふたりの英理が車道の向こうから歩み寄ってくる。

「言ったでしょ。私自身が匣だって。つまり私はこの世界のひとつになったの。私の意思ひとつで、世界の姿なんてどうとでも変えられるのよ」

「遠山先輩、世界を相手にして勝てるとか本気で思ってるの?」

 右の英理の言葉を、左の英理が引き継ぐ。

 そして浩の方へとゆっくり近づきながら、ふたりの英理は融合するようにひとりに戻った。

「だからほら、たとえばこんなこともできる」

 英理が右手を真上に掲げると、数キロ先で雲まで届くほどの水柱が上がった。

 異様な光景に浩はおのずと息を吞む。確かあの辺りは……。

「まさか海か!?」

 答える代わりに、英理が手を動かす。その動きに合わせて水柱は悠然と動き――やがて水の竜と化して、浩めがけて猛スピードで飛来した。

「うっ……そだろぉぉぉ!」

 避けられるような規模じゃない。食らいつくように叩きつけられた激流に呑み込まれ、浩は上下の感覚すら失いながらどこぞかへと流されていく。

「げほっ……げほっ……つ、つえぇ……とんでもなく」

 浩はあらゆるプログラムを理解し、模倣できる。その力を使いこなせるようになった今、仮想世界の中でならもはや敵などいないと思っていた。だが今、地に伏せながら、浩は自らの思い上がりを恥じることになった。

 気が付けば浩は、桃生町東駅まで流されていた。近辺には山が多い。今の英理の力なら、木や土すらも武器にできるのだろう。このままでは浩に打つ手はない。

「だったら……その力、借りるぜ!」

 浩は再び接近してくる英理を見据え、彼女の力を模倣しようと意識を集中させた……が。

「あ、あれ……?」

 いつものように力が流入してくる感覚がない。浩は戸惑いながら自分の両手に視線を落とす。明らかに、模倣は失敗していた。

 その間に英理は距離を十分に詰める。彼女が再び手を掲げると、浩が予想した通り、山の木々が無数の槍のように高速で飛んでくる。

 慌てて浩は回避を試みるが、数が数だ。細木が幾本も手や足の肉を貫く。

「がっ……ぐぁぁっ……!」

 縫い留められるように、浩は再び地に叩き伏せられた。痛みにのたうち回る浩を、英理は表情ひとつ変えずに見下ろし淡々と口を開く。

「あなたの力は、この匣という世界の理に基づいたもの。世界そのものの力を模倣なんてできるはずないでしょ」

 浩がやろうとしたことがまかり通れば、英理が匣をコントロールする力さえコピーできることになってしまう。そんな荒唐無稽に挑戦したのは今が初めてだったが、どうやらさすがに度が過ぎていたようだと浩は今さらながら小さな反省の念を抱く。

 うるさいほどに乱れた自分の呼吸音を聞きながら、足を掴んで痛みに耐える浩の前に、英理が立ち止まる。

「もうどうやっても勝てないんだから、いい加減諦めたらどう?」

 英理の言葉は正しいと、浩も思う。英理には勝てない。

 それでも。ゆっくりと浩は立ち上がる。かつて何度でもそうしてきたように。

「悪いな、諦め方ってやつをすっかり忘れちまったみたいだ」

 そう告げて浩は口の端を持ち上げる。

 英理の眉がかすかに寄せられた。

「いいわ。だったら先輩が諦めるまで続けましょう。絶望的な状況でどこまで抗えるのか、見ててあげる」

「上等だ……!」

 そこからの戦いは、あまりにも一方的なものだった。

 匣の力を得た英理は世界のすべてを自在に操る。

 その姿はまさに、世界の神に等しい。

 浩は海に叩かれ、山に弾かれ、雷に撃たれ、そのたびに大地に打ち付けられた。

 何度地に伏せても、浩は再び立ち上がった。とても力は及ばない。勝てる手立ても見つからない。それでも、何度でも立ち上がった。

 けれどその回数が数百、数千と積み上がると、意志に反して体が軋む。反応が鈍り、膝が震え……ついに浩は仰向けに倒れたまま、身動きできなくなった。

 一見すると傷はない。全て受けた瞬間に浩が修復したのだ。けれどそれも、これ以上続けられるか怪しいものだ。蓄積したあらゆる負担が、もう浩に会話以外の行動を許さない。

「反則だろ……」

 思わずぼやいた浩を、先ほどと何ら変わらぬ目で英理が見下ろす。

「さすがに諦める気になった?」

 浩は大の字になって、指先ひとつ動かせない状態で笑みを零す。

「まさか。諦められねぇよ。俺は死んでも諦めない」

 太刀打ちできなくても、立ち上がれなくても、たとえ力がなかったとしても。

「全身がバラバラになっても、お前を追い続ける」

「……どうして?」

「そりゃあ……」

 聞かれて、浩は数秒考えた。

「それ以外に、俺にできることないだろ、今」

 英理に勝てず、彼女を説き伏せることもできないのなら、自らの意思を繋ぐために浩ができることは起き上がることだけだ。それは匣を掌握し、この世界での全権を有する英理にも止められない。

「逃げても追いかけてきて、倒しても起き上がってくる。そこまでくるともうホラーね」

 わずかに表情を引きつらせてそう言う英理に、浩は思わず噴き出して笑った。確かに、違いない。

「ああ、そうだ。どこへ逃げようと無駄だぜ。だからお前の方こそいい加減、諦めろよな」

 圧倒的劣勢であるにもかかわらず、平然とそう言ってのける浩に英理の口からはため息が漏れる。

「……そうね。遠山先輩は絶対にあきらめない。どんな状況でも戦うことをやめないし、ここにいる。居続ける。追い払うのではなく、どうやれば一緒にいられるかを考えてる」

 語りながら英理は籠手をはめた自分の手に視線を向けた。音もなく籠手が消えて、英理のしなやかな指が現れる。英理はその指を軽く握り込み、肩を落とした。

「まるで治らない病気ね。向き合い方や共に歩む距離を考えないといけない」

「おい、病気って、ひでえな!」

「病気っていうか、自然災害の方が近いかも」

「お前なあ……ほんと、そういうとこだよ」

「うるさい。一歩も動けないくせに。口ばっか」

「ほっとけよ。てか、誰のせいだ」

 首をもたげようとしてやはり動けず、辛うじて目だけ動かして英理に不満を訴える。

 そんな浩の姿に、ずっと我慢していたかのように英理の唇が震えた。そしてついに耐えきれなくなって、彼女は声に出して笑った。

 昔の彼女が友人の前で時折見せていたような、屈託のない笑顔で。

 ひとしきり笑う英理の姿を、その波が引くまでじっと見つめて、浩は独り言のように問うた。

「匣、止めるのか?」

 胸元に手を添え、笑いで乱れた呼吸を整えていた英理が、視線で振り返る。

 匣を止めれば、匣を構成している子供たちも全員、犠牲になる。それがわからないほど浩も英理も匣との付き合いは浅くない。

 英理はしばらく、何も言わずに浩を眺めていた。感情豊かなくせに、本心を隠すのがうまい目だ。自分を見つめる英理を見返すしかできない浩は、内心でそう思う。

「……声が聞こえたって、言ったでしょ。ここに来た時、私は桃生町や、たくさんの匣によって犠牲になった小さな命たちの声を聞いたの。その声は、言ってたわ――」

 一呼吸置いて紡がれた言葉が、月明かりに乗って浩の耳元へ運ばれる。

「許してあげて、って」

 囁くような呟きは、柔らかい。深く息を吐き出しながら、英理はもう一度口にした。

「人を許してあげてって、言ってたの」

 犠牲になった命たちが、どこまで自分たちの状況を理解していたのかは浩や英理には知る由もない。悲しいことも苦しいことも、たくさんあったはずだ。けれど彼らは『許し』を求めた。

 浩はゆっくりと、息を吸い込む。今聞いた言葉を慎重に呑み込むように。

「それじゃあ、匣は……?」

 どうするつもりなのかと、英理に問う。

「止めるわ。そして、私がシステムを全て掌握した状態で再起動させる」

「再起動……」

 浩は英理の言葉を呆然と繰り返した。

 匣が止まれば、子供たちは犠牲になり、仮想世界は消え去る。けれど再起動させるなら……話は変わる。

「今までの匣は終わり。私が新しく匣を引き継ぎ、誰もが……子供たちも、この世界で生まれたプログラムたちも、外の世界の人間たちも、本来の生き方ができるような世界にするの」

 これまでの淡々とした語調ではなく、うっすら熱を孕んだ声で英理がそう言った。

「本来の生き方って……それって、どういう――」

 浩はいつの間にか見開いていた目で、英理を見上げた。