『月英学園 -神-』
原作:杉田智和 御立弾
著:熊川秋人 執筆協力:駒尾真子

幕間

interlude Ⅱ-Ⅰ

 何かが断絶するような音と共に瞼の裏側で数度閃光が瞬いて、いずみは目を開けた。

 最初に認識したのは、すぐ目の前にある透明な窓だ。窓といっても、太陽の光を取り込むためのものではない。いずみが横たわるポッドの蓋を兼ねた、中の人間の様子を観察するためのものだ。

 ポッドを満たしていた生命維持のための溶液が少しずつ抜けていく。水中に浸かった状態だった体が溶液から解放されると、途端に重力と空気が押し寄せてきていずみは勢いよくむせ込んだ。

「げほっ、げほ……ごほっ、はぁ……何度やっても慣れないわね」

 反射的に弾むように暴れる体を何とか押さえて、急激に重くなる体を起こす。その動きに連動するようにして透明な特殊樹脂製のポッドカバーが静かに開いた。

 ポッド内の供給された空気とは違う、ざらついて冷たい空気が肺に入り込んでくる。

 久しぶりの、現実の空気だ。かれこれ数か月ぶりになるだろうか。いずみは呼吸を整えながら、なんとなしに周囲を見回した。

 薄暗い部屋だ。暗灰色の金属質な壁に囲まれたそこには窓一つない。その壁の低い位置に等間隔に設置されたオレンジ色のほのかな照明が、頼りなく視界を照らしている。

 部屋はかなり広く、いずみが今まで横になっていたのと同じポッドが、頭部を集めて円形を作るようにいくつも設置されていた。

 このポッドは、匣への渡し舟だ。つまり月英学園や桃生町があった仮想空間へ、あるいは眩しい日差しが降り注ぐ常夏のビーチへ行くための装置。

 そしてここは、いずみたちが匣の中へと赴くための施設だった。匣が緊急停止するまでは。

「頼んだわよ……」

 ポッドの縁に手をついて、外に出るべく腰を浮かせながらいずみは呟く。御月英理を見つけられるのは、きっと彼だけだ。だからこそ、匣の中のことを匣の中の存在が担うように、自分は匣の外のことをしっかりと担わなければ。

 誰が今の状況を作り出したのかは、わかっている。

 執行蓮という男だ。

 システム諜報部のいずみにとっては、匣というシステムを作り出した開発者。月英学園の生徒としてのいずみにとっては、前生徒会長。

 なんとしても彼を追わなければ。彼は匣を完全に破壊するつもりだ。そうなれば、仮想空間は跡形もなく消える。そして完全に破壊されてしまったら、復元も不可能だ。

 なにも、ビーチで共に過ごした子供たちへの同情心だけではない。匣プロジェクトが停止すれば、人類はワクチンを手に入れる手立てを失い滅びを待つだけとなる。

 そんなことは――。

「げほっ、げほげほげほっ、ぉえ」

 激しくむせる声がすぐ隣のポッドから聞こえてきて、いずみは反射的にそちらへ顔を向けた。

 いつの間にか隣のポッドのカバーが開いており、その中でじたばたともがく手足が見える。かと思うと、ポットの壁面に手をついて誰かが起き上がった。誰かもなにもない。部下の千明葵だ。

「ちょっ……隣にいたの!? 気持ち悪い!」

 立ち上がりかけた半端な姿勢のままでいずみが思わず本音を声に出す。

 場合によってはおよそ罵倒だが、チアキには挨拶の一種にすぎないようでいずみを振り向くと笑顔で手を振ってきた。

「あっ、隊長、おはようございます! 敬愛する隊長の一番傍に常に控えているのが、部下としての務めですよ」

 言いながら、チアキはポッドから出る。このままぼうっとしていたら、手を差し伸べられかねない。いずみも素早くポッドから、金属質な床に両足を下ろす。

「やめてよね……そういうの」

いくらか引いた声色でそう言いながら、いずみは部屋の唯一の出入り口である、黒い電子扉へ足を向けた。当然のように、チアキが一歩後ろを追従する。

 二人分の足音が、迷いのない早いリズムで刻まれる。

「ところで隊長。『あのこと』は遠山さんに伝えなくてよかったんですか?」

 あのこと。そう聞いていずみは瞬時に思い当たった。

 匣が停止された時に起こる、もうひとつの問題のことだ。

 匣とは、ウイルスへの抗体を持ち得る子供たちの脳から創られている。つまり匣をシャットダウンするということは――その本体である子供たちの『生命活動の停止』を意味する。

 しかしいずみは小さく首を振り、なおも前へと足を進める。

「言われたでしょ、外の世界のことは外の人間がどうにかしなきゃ。彼に余計な憂慮を抱かせる必要はないわ」

 全ての匣を構成する子供たち全員となると、その数は千にも及ぶ。彼ら全てを助けるには、相応の準備と時間と人材が必要だ。だから――。

「まずサーバールームですよね?」

 後方からの確認に、いずみは振り返らずに頷いた。あまり時間の余裕はない。

「ええ。まずは彼女を確保しないと」

 匣プロジェクトの被検体であり、人類が手にした唯一の希望が、サーバールームに保管されているはずだ。万が一にでもそれを奪われ、あまつさえ殺されてしまったら、人類は終わりだ。

 遠山浩をサルベージするのに、少々手間取った。急がなければ。

 浩が匣のシャットダウンを阻止してくれさえすれば、他の子供たちの命は助かる。だから今は。

 いずみはきつく唇を引き結ぶと、素早く電子錠を開錠して扉を開けた。