『月英学園 -神-』
原作:杉田智和 御立弾
著:熊川秋人 執筆協力:駒尾真子

第二章

そういうあなただから

 ――匣。

 死のウイルスに侵された世界を救うために人類が開発した、最後の希望。

 抗体を所持し得る子供たちの脳から、禁忌の研究によって創られた、仮初の世界。

 匣の中では、ウイルスと抗体をデータとして具現化した存在による戦いが、日夜繰り広げられていた。

 それは、匣が作り出した仮想空間を現実だと思って生きて来たデータ体たちにとっては、永遠に終わらない過酷な日々だった。

 ただし過酷なのは、何も匣の中だけではない。外の世界もまた、ひどく過酷な運命にさらされていた。

 阿式ルルからもそう聞いていたし、浩自身も何となく状況を理解してはいた。だがいずみやチアキから語られた『今』の『現実』は、知っていた以上に凄惨だった。

 かつて八十億だった総人口は五億を切り、各地の集落では争いが絶えない。

 そんな人類を救うために開発されたはずの匣だったが、ほとんどの者にとっては私欲を満たすための道具でしかなく、生き残った多くの人間が仮初の楽園で暮らすための数少ない枠を取り合っている状態だという。

 財産を失ってでも匣の中に安住の地を求める者。その状況を利用して、詐欺を働く者。匣プロジェクトが成功し、ワクチンの完成を願う者。

 誰もが匣に依存して生命を繋いでいる。

 その匣に、大きな問題が生じているといずみは語る――。

「すべての匣はシャットダウンされた。間もなくこの世界は完全に閉ざされるわ」

 世界が閉ざされる。

 それはつまり、すべてのデータ体にとっての死を意味する。

「現実世界の時間で三日前、ある人物がメインフレームのサーバーに侵入して、すべての匣との繋がりを強制遮断したの。その結果、これ以上仮想空間を維持することはできなくなった」

「現実世界での三日は、この仮想空間ではおよそ一年にあたります。この一年間、僕と隊長はあなたのサルベージを続けてきました」

 いずみに続いてチアキが言う。その活動の結果が、今日実ったということなのだろう。浩はじっと自分の手を見る。

 暗闇の旅路では感覚すら忘れていた自分の手の感覚。二十年がたったという。この手に今さら何ができるのか。

 いずみの言葉が続く。徐々に彼女の言葉には熱がこもり、冷静だった眼差しはいつしか懇願するような温度を帯びていった。

「このままメインフレームまで完全に停止すれば、今までの実験の成果もほとんど失われる。そうなれば、この仮想世界だけでなく、外の世界も滅んでしまうわ。でも私は、諦めたくない。だからそうなる前に――」

 一呼吸分の間を空けて、いずみが告げる。体中の空気を吐き出すように。

「――御月英理さんを、あなたに救ってほしいの」

 浩は戸惑いに表情を曇らせた。

「いや、もともとあいつをメインフレームから解放するつもりだったけど……なんでそこで御月の名前が出てくるんだ?」

 匣がシャットダウンされたことと、どんな関係があるというのか。

 いずみは一度唇を噛み、浩の疑問に答える。

「メインフレームのサーバーに侵入者を手引きしたのが、彼女だからよ」

 その事実に浩は驚愕すると同時に、言葉を失った。

 冷静さを取り戻せないまま、いずみは先を続ける。

「侵入者は執行蓮。匣のメインプログラムの開発者であり、以前は自身も匣の中に生活を移して月英学園の生徒会長を務めていた人物」

 執行蓮。聞き覚えのある名前だった。

 かつてのクラスメイト執行律の兄で、月英学園の前生徒会長だ。そして、遠山浩というアバターの元になった人物でもある。桃生町では『失踪した』と言われていたが、彼が現実世界で生きていたことを、浩は初めて知った。

「執行蓮はワクチンの希望としてメインフレームに移送された御月英理に目をつけ、そして開発者ならではの何らかの方法で連絡を取り、彼女に侵入の手引きを依頼した……というのが、システム諜報部の見解です」

 いずみとは対照的に、表情を崩さず淡々としているアオイ=チアキを見て、浩は率直に浮かんだ疑問を口にする。

「なんで御月がそんなこと……」

「さあ、そこまではなんとも。わかってるのは、このままだと世界が滅ぶということだけです。御月英理から抽出したワクチンは解析に手間取っていて全人類を救うにはとても足りませんし、解析を急ごうにも彼女はメインフレームの奥深くに閉じこもったまま。すべての経路が遮断されていて、打つ手がありません」

 どうしようもなく絶望的な状況だ。それでもチアキの表情は変わらない。いっそ冷徹なほどに、淀みなく浩へ告げる。

「どのみち、御月英理の本体である少女エイリの小さな身体では、もうこれ以上の負荷に耐えられないんです。人類は匣の研究にあまりに永い時間をかけすぎてしまいました。遠山さんはずっと御月英理を追ってメインフレームを目指してたらしいですけど、それも全部無駄だったんですよ。あなたがやってきたことは、ただのプログラムが目を覚まさない少女を追い続けていただけです。おとぎ話にもならない、自己満足だ」

 その口調は最終的に、浩を責め立てるような強さを孕んだ。場の空気が如実に重くなり、しばしの沈黙が流れる。

 それからチアキはひとつため息をつき、一度長く瞼を伏せると改めて浩を見る。

「――それでも、あなたは御月英理に会いに行くんですか?」

 チアキの目は真剣だった。そこにあるのは怒りでも、絶望でも、嘆きでもなく、浩の決意を確認するような真っ直ぐな眼差しだ。

「行くに決まってるだろ」

 即答だった。

「俺の自己満足だろうが、あいつが何をするつもりだろうが、世界が滅ぶことが確定してようが、関係ないね。御月を見つけて解放するって、阿式とも約束したんだ。まあ、できれば世界ってやつも助けたかったけどな」

 浩がそこまで言うと、チアキは確認が終わったとばかりに、いずみに視線を送って小さく頷いた。

 浩はいずみに向き直る。

「俺がそう答えるってわかってたから、兼城は俺を頼ってくれたんじゃないのか?」

「そうね。確かにそういうあなただから、期待していたわ」

「おいおい、この状況で世界を救うっていう期待なら、さすがに重すぎるから勘弁してくれよ」

 肩をすくめる浩に、いずみは不敵な笑みを浮かべた。

「あなたなら私たちを『あるべきところ』に向かわせてくれるんじゃないかっていう期待よ。生きるにせよ、滅ぶにせよ、人の手の届かない世界になることが私の願いだもの」

 意志の強さを感じさせる目つきとは裏腹に、いずみの願いは優しい。

 浩もつられたように口の端を持ち上げた。

「言っておくけどどうなっても責任は取らないからな?」

「わかってる」

 いずみは大きく頷いた。それから凛と背筋を正す。

「執行蓮と御月さんがどんな話をしたのかはわからないわ。だけど匣を止めるための侵入を手助けしたということは、御月さんが外の人間を恨んでいるということ……当然よね、外の人間はこれまで彼女に散々酷いことを強いてきたんだから」

 だけど、といずみは続ける。

「エイリとして家族を愛した彼女にも、御月英理として小さな町のために戦った彼女にも、大切にしていた世界を自分で壊すなんてしてほしくない。……その時きっと、本当の意味で彼女は怪物になってしまうと思うから」

 その話を聞いていた浩は、海上に広がる澄んだ青空を眺めた。かつて彼女が見たいと願った青空を。

「だから、御月を救ってほしいってことか……」

 呟く浩の口調は、どこか煮え切らない。いずみは微かに首を傾げる。

「なにか気になることでもあるの?」

「……いや、なんでもない。アイツに直接会って確かめてみるさ」

 浩は覚えている。桃生町でエイリの憎しみから生まれたハザードと戦った時、英理が言ったことを。『憎いから、気に入らないから壊すなんて間違ってる』。そう彼女は言った。そんな英理が人間を憎んで世界を壊すなんて、信じがたいことだ。

 だから、直接会って確かめるしかない――。

「……ところで、メインフレームってここからどうやって行けばいいんだ?」

 そう聞いた瞬間、いずみが穏やかに笑った。まるで、月英学園のクラスメイトだったあの兼城いずみと同じように。

「ふふっ、安心してください。すでに助っ人を呼んでありますから」

 表情だけではない。口調まであの頃と同じだ。佐藤や田中と共にいたあの頃と――。

 瞬間、強い海風が吹いて浩は思わず目を瞑る。と同時に、懐かしい声が耳元に届いた。

「おっす浩! 元気してたか?」

「久しぶりだな、遠山」

 浩は大きく目を見開く。耳を疑ったが、慌てて振り向いたその先に待っていた二人の姿に、信じざるを得なくなった。

 真っ赤な髪に軽薄そうな笑顔の男と、威圧的に佇むスキンヘッドの男。遠のいていた浩の記憶が鮮やかに色づく。月英学園で何度その顔を見て、何度その姿に助けられただろう。

「佐藤……田中……!」

 思わず破顔した浩へ、佐藤と田中がおのおのに親指を突き立ててみせる。

「よう、浩~! 世界一頼りになる親友が駆け付けたぜ!」

 立てた親指を自分に向けて、佐藤がニヒルな笑みを作る。その隣で田中が微かに、ほんの微かに微笑んだ、気がした。

「ルル様は現在、身動きができない状況にある。我々はその代理だ」

「でもお前らはあの時、阿式と融合したんじゃ……」

 かつての桃生町での戦い。その最後の戦いに赴く時、佐藤と田中はその身を犠牲にして浩と決戦の地へと運んでくれた。

「兼城がルル様を見つけてくれて、そのルル様に頼まれたんだ」

「遠山の力になるようにとな」

 佐藤と田中は記憶にある通りの気さくさで話してくれる。それが嬉しくもあり、少し苦くもあった。彼らをここに寄こしてくれたルルの配慮はありがたいが、それだけ彼女は身動きできないということでもある。

 抱いた複雑な感情がそのまま表情に出ていたんだろう。乱暴なほど強く、佐藤が浩の背を叩く。

「メインフレームへの案内なら、オレらに任せとけ! そんでその代わり、外のことは外の人間がなんとかしてくれよな」

 台詞の後半はいずみに向けられたものだった。いずみが微笑み、浅く頷く。

「ええ。どこまでできるかわからないけど、全力を尽くすわ。だから」

 いずみの視線が浩を見つめて、それに応えるように今度は浩が頷いた。

「……ああ。こっちは俺たちが何とかする。必ず御月を見つけ出す」

 それは世界のためというよりも、浩のためなのだけれど。どちらにせよやることは変わらない。

 佐藤と田中が両側から浩の肩に手を置くと、日差しで熱くなった砂浜の感触が吸い取られたように遠のいた。すぐに出発できるようだ。

「頼んだぞ、佐藤、田中!」

 浩がそう告げた瞬間に感覚の全てが勢いよく宙へと吊り上げられた。

 一瞬だけ、眩しいビーチを立ち去る前に、子供たちの姿が視界に映った。

 無邪気に笑い、手を砂で汚して、全身でこの瞬間を楽しんでいる。あの子たちはきっと、この時間が永遠に続くと思っているに違いない。

 瞬く間に真夏のビーチの景色は消えて、浩は再び暗闇へと旅立った。