『月英学園 -神-』
原作:杉田智和 御立弾
著:熊川秋人 執筆協力:駒尾真子

終章

そして月は輝く

 赤い空と動かぬ月を背景に佇む英理を見上げて、浩は咄嗟に言葉を紡げずに数度瞬きを繰り返した。

「それじゃあ……お前が執行蓮を手引きして匣を止めたのは、お前が匣を乗っ取るためで……お前が匣を乗っ取ったのは、今も利用されてる子供たちを匣から解放するためってことか?」

「……それだけじゃないけど」

 ようやく聞けた説明を雑にまとめたのが不満だったのか、英理は少しだけ面白くなさそうに唇を尖らせて、倒れた浩の傍らにしゃがみこんだ。

 英理が匣そのものを掌握したことで、現在の匣は英理の関与なく操作することは不可能となった。外部から干渉を受けて匣内部の世界環境が操作されることはない。誰かが一時の夢を見るために世界を利用することはできなくなった。

 さらにいえば、浩たちが月英学園で過ごしていたような、終わらぬ戦いに明け暮れることさえ否定できるようになった。英理がそう望めば。

 それはあまりにも強引な方法だった。けれど匣をただ止めるよりも、ずっと前向きな手法にも思えた。

 だからこそ、浩は気になる。

「……じゃあなんで、お前は俺と戦ったんだ?」

 初めからそう言ってくれれば、あんなに激しく戦闘する必要なんかなかったはずだ。

 英理は自分の膝の上で頬杖をついて、あっさりと答える。

「あなたのことが気に入らないから」

「おい!」

「ふふ、冗談よ」

 そこでようやく英理は笑顔を見せた。どこか悪戯っぽい笑みだ。

「悪く思わないでね。別に意味がなかったわけじゃないから」

「その意味ってやつは、聞かせてもらえるのか?」

 ぼやくように言う浩へ、英理が手を差し伸べる。

 まだ全身の感覚は遠かったけれど、浩は応えるように手を差し出す。

「世界中に中継されてるの、私たち二人とも」

「えっ」

 手が触れ合う寸前に英理が告げた言葉は、浩が想像もしていなかったことだった。

 思わず浩は手を引いた。けれど英理はそれを許さず、引いた浩の手を取る。

「あなたの姿を、大勢の人に見せようと思ったの。どんな状況でも最後まで自分らしく生きようとする遠山先輩の、諦めの悪さを」

「……それって、褒めてると思っていいのか?」

 英理が笑う。その屈託のない笑顔が、肯定だと言っている。

「諦めない。すごくいいことじゃない。外の世界にはそれがない。だからみんな、未来に何も見いだせなくなってる」

 だから匣にすがったり、夢に逃げたりして、現実と未来から目を背け続けるのだ。

「今一番必要なのは、ただひとつ」

 ――諦めないで。

 それは𠮟咤であり、激励であり、責苦であり、許しでもある。

「これだけ自分勝手で諦めの悪い人がいることを知れば、みんなもちょっと勇気が湧くんじゃないかなって」

「言い方な! さっきからちょいちょい引っかかるんだよなぁ!」

 浩が言い返すと、英理は軽く肩をすくめてみせた。

「あ、まだ中継されてるからね」

「えっ」

 急に緊張したように身体を固くする浩を見て、英理はもう一度笑った。

「今さらなに? そんなに緊張しなくても、もうみんな一通り見た後よ」

 そう言って、英理は浩の手を引いた。全身がバラバラになりそうなほど痛く、重かった体が、不思議なほど軽く立ち上がった。戸惑いは一瞬だ。なにせ相手は、この世界の神にも等しい存在なのだから。

 神は神らしからぬ、してやったりというような笑顔で、再び立ち上がった浩を迎えるように見つめた。

「大丈夫、きっとみんな勇気づけられてるわよ。遠山先輩、まるで英雄ね」

 浩はまたも言葉を失い、口の中に滲んだ唾液を渇いた喉に呑み込む。

 握った英理の手は、柔らかくしなやかな少女の手だ。この決して頑強でない手が、この決して屈強でない肩が、決して隆々でない背が、世界の姿勢を動かそうとした。そして見事に、やり遂げてみせたのだ。

 浩や英理からは見えないけれど、外の世界では確かに変化が起きていた。浩の姿は英理が望む通り、人々の心に小さな火をつけたのだ。

 やがてその火は少しずつ大きくなって、燃え盛るような炎にまではならずとも、辺りを照らす灯火にはなるだろう。未来へ進むには、明かりが必要だ。その先の未来がたとえ、行き止まりだったとしても。

「英雄……それを言うなら、お前のほうがよっぽどすごいと思うけど」

「すごくないわ。私はただ……普通の世界でいてほしかっただけ。兄さんが愛した世界も、執行蓮さんが救おうとした世界も。みんな普通に暮らしてほしかっただけ。そのために私にできることがあるのなら、こんなに嬉しいことってないと思うわ」

 英理は照れるでも、謙遜するでもなく、至極真面目にそう言った。彼女が心からそう思っていることは、本心の見通しにくい英理の眼差しからもありありと見て取れた。

 握ったままの浩の手に、英理はもう一方の手も重ねる。ぎゅっと力を込めて握ってくる彼女の手を、浩はしっかりと握り返した。

「まだ私たちには、できることがある。そうでしょ」

 英理の晴れ渡る空のような笑顔に、浩も思わず笑みを浮かべる。

 あの日、月英学園の屋上で出会った少女。

 流されるままの雲を見上げて、それでいいのかと呟いていた少女は。

 自分の意志で、歩むべき道を見つけたのだ。

 夜の闇を歩く人々を照らす、輝く月のような道を。

 ――もう匣の導きは人類に必要ない。

 夢から目覚める時が来たのだ。

 これからは互いの生きるべき世界で、迎えるべき終わりのために時を紡ぐ。それがあとどれくらいかはわからない。けれど時間が流れ続けるように、歩み続ける他にない。

どこかで灯る希望を探して。