『月英学園 -神-』
原作:杉田智和 御立弾
著:熊川秋人 執筆協力:駒尾真子

第四章

メインフレーム

 現実世界では四時間ほどしか経っていなくとも、仮想世界ではすでに二十日が過ぎていた。

 その間、メインフレームまでの旅路の中で、浩は第三次大戦以降の人間の姿を見てきた。

 焼き尽くされた大地と失われた多くの命。追い打ちをかけるように猛威を振るう、対処方法の不明な狂暴化ウイルス。そしてようやく人類が見いだした生存のための希望……子どもの脳を利用した、陰惨なワクチン開発。

 匣ができてからの人間の有様は特にひどかった。佐藤と田中が語っていたように、それはまさに人間の欲を凝縮したようなものだった。

 賭けに浸る者もいた。権力を振りかざす者もいた。人を殺める者もいた。仮想空間内の土地を高く他人に売りつける者もいた。現実とは違う世界を手に入れた人類は、現実では果たせない欲を夢の中にぶちまけた。ここでは、誰もが怪物と成り果てる。

 そんな者たちの行いを眺めながら、浩は二十日間の旅路を歩んできた。

 同じものを、英理も見たのだろうか。だから英理はメインフレームへ執行蓮を招き入れ、匣を停止させようとしたのだろうか。

 会えばわかる。聞けばわかる。そうは思っても、気持ちが騒ぐ。

 彼女に会って、どうすればいい。匣を、世界を、人々を、御月英理を、どうすればいい。

 浩は答えを出さなければならない。

 やがて浩の前に、巨大な真っ白い壁が立ち塞がった。

 あまりに巨大なために壁に見えたそれは、扉なのだと田中が言う。

 ついに到着したのだ。メインフレームの、入り口に。

 巨大すぎて上が見えない扉を浩が見上げていると、佐藤が背後から肩に手を置いた。

「悪いがオレたちはここまでなんだ。ここからは、浩。お前ひとりに任せたぜ」

 浩が振り返ると、励ますように佐藤が笑みを浮かべた。

 その隣で、田中が拳をきつく握りしめ、唇を噛みしめながら浩へ頭を下げた。

「遠山……ルル様のことを頼む」

 本当なら、田中自身がこの先へ行きたいのだろう。佐藤だってきっとそうだ。

 託された思いに頷き、浩は真っ白い扉へ向き直る。

「おう。任せとけ!」

 右手で作った握り拳を高々と突き上げ、その手で扉に触れた。

 佐藤と田中との別れは、これが二度目だ。しかし浩に迷いはなかった。

 浩が立ち入ったのは、扉の巨大さには不釣り合いな小さな空間だった。

 絶えず形を変え続ける立方体と、その中で決して形を変えない立方体が組み合わさった不思議な空間。そこはメインフレームと呼ばれる場所だ。

 透明な壁と天井と床があるだけで、他には何もない。その空間の中央、不動の部屋のさらに中央に小さな人の姿があった。

 阿式ルルだ。

 自らの足で立っているのではなく、目に見えない鋲で宙に磔にされたような状態で、ルルは力なくうなだれている。

 浩が歩み寄ると、ルルの蒼い瞳が時間をかけてゆっくりと開かれた。

「来たのですね……遠山、さん」

 少しばかり苦しそうに、けれど柔らかな声と微笑みでルルは浩を迎えた。

 自分の目線よりも高い位置に縫い留められたルルを見上げて、浩は眉尻を下げる。

「阿式……ごめんな、いつもお前にばかり貧乏くじを引かせちまって」

「ふふっ、でもあなたは来てくださいました……だから、醤油ラーメン大盛りを一杯で手を打ちましょう」

 耳をくすぐるようなルルの笑い声に、浩もつられて頬を緩める。

「おっ、いいねぇ大盛り。今度は残すなよ?」

 世界がどうにかなるかもしれない時にする会話ではないだろう。それが妙におかしくて、ルルと浩は同時に小さく笑い声を漏らした。

 だが街角での談笑のような浩とルルの空気を、不意に敵意が乱した。微かな空気の揺らめきに浩が振り向くと、メインフレームの小部屋の中に三つの人影が浮かび上がった。

「はぁ~もう面倒くさい、なんで来たのかなぁ! 余計な手間かけさせてくれちゃって!」

「うはwwwマジかアイツwww本当にキタwwwww」

「……どうせ無駄、ぜんぶ手遅れなのに」

 嘲笑と怒気と合理性を孕んだ声が三方向から突き刺さる。

 浩はルルから視線を外し表情を引き締めると、自分たちを取り囲む三人の少女を見やった。

 ルルと同じ背丈の少女たちは、一人は睨み、一人は笑みを浮かべ、一人は気乗りしない様子でため息を吐いている。

「お前らが怒のアル、楽のジル、喜のスルか……阿式の同僚って割に、思ってたより子供っぽいんだな。」

 吐き捨てるような浩の言葉に、三人の顔色が微かに変わる。

「うっそコイツ、私らのこと知ってるんだけどwww無理キモすぎwww」

 ジルが声に出して笑うと、スルがまた一つため息をつく。

「どうせそこのルルちゃんが、余計な真似をしたんでしょ……無駄なのに」

 彼女の推測通り、浩はここに来るまでに佐藤と田中から彼女たち三人のことを聞いていた。ルルと同じくメインフレームを、ひいてはその奥に存在する『大いなる意思』を守護する存在であることも、仮想世界においてすべてを自在に作り変えるほどの絶対的な力を持っていることも。

「ウザいんだよねぇ~プログラムのくせに人間みたいに、愛だの絆だの。お前みたいな出来損ないに、この神聖な場所を好き勝手させるかよ。ただでさえアイツのせいで大変なことになってるってのに」

 アルが両手を胸の前で交差させると、空間が大きく歪み四方から無数の巨大な柱が出現する。ひとつひとつでも巨大な柱が何層にも連なり、世界を覆う壁となって浩とルルの周囲を鎖した。

「ぎゃははははwwwwwずっとそこで、世界が終わるのを見てろっつーのwwwあ、そこからだとなんも見えねーかwwwww」

 ジルのたまらなく愉快そうな声が聞こえて、何度も、何度も反響する。

「もう間もなく終わる。匣も、世界も、みんな消えてなくなる」

 スルの声がどこから聞こえてくるのかも、入り乱れた柱に遮られてよくわからない。辺りには壁しか存在しない。

 彼女たちはメインフレームに遣わされた、ルルと同種の女神だ。その力でもって創造された壁を破壊する術は存在しない。彼女たちを上回る存在でない限り。

「消えてなくなる……本気なのか。御月は本当に世界を終わらせるつもりなんだな」

「だからなんだっつーのwwwオマエには関係のない話だしwww」

 浩の呟きに答えたアルの笑い声が周囲にこだまする。

 右へ左へ移動する哄笑を聞き流しながら、浩は大きく息を吐き出した。ゆっくりと右手を壁に向かってかざす。すると――。

「なッ……!?」

 響いていた笑い声が驚愕の声に変わる。浩とルルの周囲を覆っていた無数の壁が深いヒビを走らせながら、脆く崩れていく。そして全て、粒子となって消滅した。

「馬鹿な、あり得ない! 大いなる意思に与えられた権限だぞ!? なんでたかが辺境の匣のマスターが創ったプログラムなんかが!」

 スルの怒声と共に再び三女神が姿を現した。自分たちの権限を塗り替えられたことがあまりにも信じがたいらしく、明らかに三人は狼狽していた。

 だが彼女たちには構わず、浩は己の右手に視線を向けるとわずかに眉を寄せて呟く。

「匣のマスターか……いや、桃生町の子供たち……エイリか? もしかしたら、いつかこうなるかもしれないってわかってたのかもな……」

 いつか自分が、メインフレームと対峙することになるかもしれないと。

 メインフレームに侵入したときから、浩は自分の変化を感じ取っていた。まるで自分の中身が書き換えられていくような感覚だ。

 浩の力は、匣の管理者であったコウによってプログラミングされた。そしてその特異な力は、匣の開発者である執行蓮のアバターという唯一無二の特性を経て、この世界のあらゆる権限をも上回るコーディング能力となったのだ。

 いわばすべてを書き換える力だ。

 浩はその右手を、三人の女神へと向ける。何をするつもりなのかは、瞬時に察せたはずだ。今何を書き換えるべきなのかは明確だ。

「やめ――」

 誰が発した言葉なのかは最後までわからなかった。言葉が終わるよりも先に、アルとジルとスルは、さっきの壁と同じように粒子となって消滅した。

 データに死はなくとも、それはいわゆる『死』といえる。

 粒子が完全に目に見えなくなるまでものの数秒、一歩も動かずそれを見届けると、浩はルルを振り返って宙を撫でるように右手を動かした。

 薄いガラスが割れるような音を立てて、宙に磔にされていたルルが解放される。支えを失い崩れ落ちるように倒れて来た小さな体を、浩は反射的に抱き止めた。

 そんな浩の腕の中で、ルルが弱々しくも顔を上げる。

「貧乏くじはあなたの方ですよ……遠山さんこそ、いつも辛い思いばかりしてきたではありませんか。今回も……」

 少女の細い腕が浩の体を抱きしめる。慈しむように、労わるように。

「ごめんなさい。私たちこそ、誰よりも人々に寄り添うべきなのに……世界を救うはずの匣が、人類を滅ぼすきっかけになるなんて、決して許されることではないのに……私のほうが、あなたを頼るばかりで……」

 一瞬堪えたような間があったけれど、ルルの大きな瞳から透明な雫が零れ落ちる。一度堰を切ったら後からはとめどなく涙が溢れて、ルルの華奢な肩がしゃくりあげるたびに小さく跳ねた。

 浩はそんなルルの頬を指先で拭い、かつて桃生町でもそうしたように、彼女の頭を軽く撫でた。

「そんなに泣くなよ。子を思わない親がいないように、親を思わない子もいないんだ。それに……十分優しかっただろ、阿式は」

「遠山、さん……っ」

「さて、と。それじゃ、あとはあのお転婆を止めてこねぇとな」

 むしろここからが本番だ。 

 ルルの頭を最後にぽんぽんと軽く叩き、浩はメインフレームの奥へ向き直る。

 浩が手を放すと、ルルは両手で自分の涙を拭い同じように奥へと目を向けた。

「はい。道を繋ぎます。……だから」

 その先の言葉がいらないとばかりに、浩は先んじて頷いた。

 やるべきことはわかっている。彼女を必ず見つけて、解放する。ずっと前にそう約束したのだ。

 ここから先は浩がひとりで歩むべき道だ。

 ルルが祈るように手を組むと、浩の視線の先が白くアーチ状に輝いた。その門の向こうへと、わずかなためらいもなく進んでいく浩の背を、ルルはただ見送った。